グレーゾーンから

先日 地元の主治医に「一度、専門医に検査してもらいたい」と、紹介状をお願いした。

が、「あなたはストレスが原因なの!どこの医者に診てもらっても、どんな薬を飲んでも同じだよ!」 とお断りされ、更に薬を増やされておずおずと帰ってきた。

しかし 一向に回復もせず、それどころか健忘や体重減少は悪化するばかり。

 

偶然、子供の同級生のお母さんと電話した時。事態は一気に好転した。

 

私と同じ「癲癇」で通院している病院を教えてくれ、「そんなに薬飲んでたら体壊すよ!こないだ会った時、誰か分からない位痩せてたしょ?早く大きな病院に行きな!」と 私の背中を押してくれた。

翌日 すぐに教えてもらった病院に電話をし、紹介状が無くても診察してくれる事を確認した。

 

当日は、初診なので当然朝から行っても夕方まで病院にいた。その間は、ただ 繰り返す発作と検査の疲れ、全身の痛みに耐えた。

その甲斐あって、医師は私が知りたかった事、してもらいたい事をほぼ完璧に、「目の前にあるカードを全て並べる」様に示してくれた。

 

「今回は癲癇発作ではない」。「癲癇であるか、きちんと精密に検査すべき」。「他の病気の可能性」。

私は 子供の頃にたった一度「髄膜炎の後遺症による癲癇の可能性」と診断されたきり、30年も専門医に診てもらうこと無くただ薬を飲み続けていた。ところが、「薬の副作用や疲労・ストレスで脳貧血で倒れたのでは?」と言われた。

確かに脱力発作とも なんか違うと感じていた。ましてや今まで脱力発作なんて起こしたことなどない。

ずっと「癲癇の疑い」と言うグレーゾーンにいたワタシ。

本当に怖いのは、田舎に住んでいると なかなか「専門医」に診てもらう事が難しいと言う事。地元はもちろん、近くて1つ峠を超えて行った先の病院でも「専門医」はあくまで出張医。突然 担当医が来なくなる、と言う事もよくある。

 

30年も「癲癇の疑い」と言う診断だけで、薬を処方され服用を続けていた。

今回の受診が無ければ、「本当は必要ない薬」を 大量に服用し続けながら、痛みに耐えて毎日を過ごす事になっていたのかも。

 

幸い、その医師は札幌の病院にデータを送ってくれ、しっかり検査してもらえるように検査入院の手続きをしてくれた。

あの日 痛みに耐えながら話を聞く私に「あなたは、家で待っているだけで良いですよ。」と言ってくれた医師の事は、どれだけ健忘が酷くなっても決して忘れません。本当に感謝しています。

忘れてしまう前に②~VanVanのキセキ

以前から、この話を書きたくて レポート用紙にまとめてたんだけど…その用紙がどこにあるのか、それすら忘れてしまってて💧だから、今 覚えてる事を、キチンとした文章になってないかも知れないけど、書いておきます。

 

私の父は 今年の1月、しかも自分の誕生日に永眠しました。皆既月食の、とても月が綺麗だった日でした。

父は肺腺がんで、『余命半年』と宣告されてから 4年も生きました。ありとあらゆる抗がん剤を試し、今年話題になった「オプジーボ」も管内で第一号、初めて投与しました。残念ながら、効果は見られませんでしたが。

そんな父は、バイクが趣味でした。

色んな所から、雑品(他から見ると)を集めては部品を取り、磨いて、組み立て、何台ものバイクを完成させました。

入退院を繰り返している間も、家に居れば 体が動く限り バイクをいじってました。

 

私が18歳の時。

「お前にコレやるから、バイクの免許取ってこい。」

そう言われたのが、VanVan50。

私は「えーっ?私 ベスパが良いなぁ」(当時流行ってた)と、親心を知らないワガママを言ってしまいました。

結局、私は VanVanに乗る事なく、家の小屋に大切にしまわれていました。

その後、弟がバイクの免許を取り、札幌で乗り続けてました。

 

私は車もバイクも、好きでした。運転の仕方、技術、配線、専門用語…自然と父の話しに付き合えるのは、家族で私だけになりました。

 

私が結婚し、旦那も車好きと聞いた時は嬉しかったと思います。

ところが、性格が余りに似すぎていたせいか、父と旦那は『ウチの氷河期』と呼ばれる程 全く顔も合わす事が無くなってしまいました。

お互い 頑固で、一度『こうなんだ!』と言ったら曲げない。どっちも譲れない性格。

 

そんな父と旦那の距離が近づいたのは、父がもうがん治療を始めて二年位の時。

私は、父の通院の為にかかるお金を必死で稼いでいました。早朝から14時までバイトをし、そのまま父を病院まで載せていく日が続きました。バイト代では賄えなくなって、旦那の職場にお願いして、男だらけの肉体労働もしました。(160cm・45kgの女ですが💧)

そんな私を、見かねた旦那が 父の通院を手伝ってくれる様になりました。

 

次第に距離が縮まり、お互い口数は少ないけど話す事も。話題は「バイク」でした。

それから間もなく、父は言葉も上手く出なくなり 少なかった口数もより一層減りました。

最後の一週間。私は母と病室に泊まり込んで、夜中に目が覚めて喋り出す父の相手をしていました。

私は、楽しかったです。父は 天井を指差して屋根の作り方を私に説明してくれたり。テレビに挿してたイヤホンをメジャーと思ってる父が、私に「何か」の測り方を教えてくれたり。一緒にバイクを直してるのか、「お前、ちゃんとビス持ってれって!!なんで落とすのよ!!」と叱られたり(笑)

こういう話、私しか分からないもんね…。そう思うと、嬉しくて楽しくて。

 

       そして。

 

父が亡くなった後です。

旦那が、おもむろに実家のバイク小屋に通い出しました。何故かは分かりませんが、突然、VanVanをいじり始めました。

旦那は、バイクの「ど素人」。どれがなんの部品かすら知らない。

毎日、仕事から真っ直ぐ実家のバイク小屋へ。

しかし 簡単に直せるワケもなく。

 

あれはお盆が近づいた 暑い日でした。

私が家で掃除をしてると…聞き覚えのあるエンジン音が近づいて来ました。すぐに「VanVanだ!!」と 家を飛び出して、この目で動くVanVanを確認しました。

「ありがとうー!!」旦那に飛び付いて心からお礼を言いました。

「違うよ。あんね、あのバイク小屋にさ、親父 少ーしづつヒント置いてってくれてたの。すっげー分かりずらくて苦労したけどね(笑)それをスマホで全部調べて、やっと動いた!」

ヒント?? 一緒にバイク小屋に戻り、よーく目を凝らすと部品の名前、同じ部分に使うもの、困った時の父の対処法…確かに分かりずらく、でも確かなヒントがあちこちに。

「俺さ、VanVan直したいんだよねーって前に親父に言ったの。したら、『お前にはムリだ』って笑われたんだわ。でも、ちゃんとヒント置いてってくれたんだな。」

 

全くバイクに無知な旦那が、父が最後に手掛けてたバイクを 乗れるまでに直した。

私にはVanVanの『軌跡』と『奇跡』だ、と思えて仕方ありません。f:id:halu326orange:20181111063653j:image

分かった事

私が今までに無い大きな「てんかん発作」を起こしてから何日経ったのか…。

今は スマホに文字を打つ事もままならず、文字を書く事も、読む事もツラい。

「活字大好き」だった私が、今まで「活字に助けられて来た」私が、読む事も 書く事も もうしんどくなってる。

 

そして。

何より 今一番困っている事。

それは「自閉スペクトラムの娘」の事。

 

私が「声掛け」をしないと、飲み物を飲んだり、食べる事もしない。(出来ないのか、しないのか、その辺は未だ分からないが)

「自分で出来る事」と「出来ない、気が付かない事」に差があるから、今までは 普通に生活する中で 常に娘に目配り気配りをしていたんだ…と気が付いた。

 

けれど、今の私は 健忘や体力の減退によって ほぼ寝たきりに近い。私自身が 飲む事、食べる事が不自由なのだ。

 

旦那が仕事から帰るまで、学校から帰ってきた娘は ストーブの付いた部屋で、モコモコの部屋着を着て 暑さで顔を真っ赤にし、ボーッとテレビを眺めているそうだ。

何度注意しても、モコモコの部屋着に着替え、飲まず食わずで ボーッとしている。

かと思えば、ペラペラの部屋着で一桁台しかない外に出かけようとする。

 

布団に横たわってる私に、いつもと同じく今日の出来事を話し続ける。以前は笑顔で受け答えしていた私は、今は別人の様に無表情…らしい。(息子談)

初めは 自分の無力さに落ち込んだ。でも、今は「私は母親なのに無力だ」と悩む事すら出来ないし、考える事も出来ない。

娘の将来の為にやりたい事を 私は進め始めた矢先だった。

「やれるとこまでやってみようよ!大丈夫!」

と背中を押してくれる人と 沢山知り合えた矢先。

忙しくて「時間よ止まれーっ」

そう 神様に叫んだ事を 今は後悔してる。

止まってしまったのは、私。

時間だけが、どんどん進んでいく。

 

忘れてしまう前に。

ここ最近、スマホに文字を打ち込む事もままならなくなってきた。文字を書く事も、読む事も、しんどくなってきた。活字が大好きな人間だったのに……

それで 夕べ旦那にその事を話して「今の状態をメモ代わりに伝えておきたかった。」

と言った。(私はすっごくメモ魔)

すると旦那は

「お前、頑張りすぎたもんな。俺も焦らせたし。」と言った。

その意味が理解出来ずに「私が、〇〇(旦那)を焦らせた??」と聞いた。

「違う。俺がお前を 焦らせてた。牛舎辞めた時も、まだ発作 治まってないのに『早く仕事しろ』って言ったり。次の仕事を辞めた時も、まだ発作 治まってないのに『ウチには金が無いんだから 早く仕事しろ』って言ったり。お前は充分頑張ってた。何 焦ってるのか知らないけど、今は休め。仕事も今月いっぱい休んで、落ち着いてから、2人で出掛けられる様になってから、その先の事を考えよう。」

自然と涙が出た。

やっと…分かったか…、旦那。

「焦るな」

と言ってた旦那が、本当は私を 知らず知らずに

「焦らせた」 こと。

いつも体が本当にツラくて、本当に動けないのに、絶対に旦那は動いてくれなくて。

結局 私や子供が動いてたんだよ。

私が元気にならなきゃ、私が動けなきゃ、子供達に負担がいってしまう事に「焦ってた」。

 

 

私が自分で「焦ってるな…」と気が付いた時。

『焦っても良いことないよ』

って 自分に言い聞かせてた。

 

まだ こんな事になる前に

優しい声で

優しい笑顔で

言われた言葉。

色んな事を忘れてしまってても、コレは絶対に忘れてなかった。

 

色々な人達をフォローしていく中で、ちょっとだけ私の自己紹介的なものを載せたいと思います(^^)

プロフィールにある通り、現在 自閉症スペクトラムの娘(中学生だが中身は小学一年生の少女)、音声・運動性チック症の息子、アスペルガー症候群の旦那、ゴールデンレトリーバーに囲まれて暮らす、コンビニパート主婦です。(ローカルコンビニ『セ〇コー〇ート』で「いらっしゃいませー、○○へようこそーっ!」と言ったり、カツ丼などを作ったりしてます。)

私自身、生後間もなく「髄膜炎」を患い、その後遺症で「癲癇(てんかん)」と共に生きてます。

が!こんなに色んな事が起こる人生なんて、きっと楽しまなきゃ損じゃない?! と思って、この「はるのへや」と言うアカウントを作りました。

Twitterの入り口は「関ジャニ∞」でした。なので、別にもう1つ関ジャニ∞のアカウントもあります(^^;

その中で どんどん色々な事を知り、もっと色んな世界が見たい!と思った時、「関ジャニ∞のアカウントで呟くべき事なのかなぁ…」と悩む事が多くなってしまいました。

この「はるのへや」は私の好きな事全部、興味を持った事全部、今の私を全部を発信するための場所にしようと思います(^-^)