忘れてしまう前に②~VanVanのキセキ
以前から、この話を書きたくて レポート用紙にまとめてたんだけど…その用紙がどこにあるのか、それすら忘れてしまってて💧だから、今 覚えてる事を、キチンとした文章になってないかも知れないけど、書いておきます。
私の父は 今年の1月、しかも自分の誕生日に永眠しました。皆既月食の、とても月が綺麗だった日でした。
父は肺腺がんで、『余命半年』と宣告されてから 4年も生きました。ありとあらゆる抗がん剤を試し、今年話題になった「オプジーボ」も管内で第一号、初めて投与しました。残念ながら、効果は見られませんでしたが。
そんな父は、バイクが趣味でした。
色んな所から、雑品(他から見ると)を集めては部品を取り、磨いて、組み立て、何台ものバイクを完成させました。
入退院を繰り返している間も、家に居れば 体が動く限り バイクをいじってました。
私が18歳の時。
「お前にコレやるから、バイクの免許取ってこい。」
そう言われたのが、VanVan50。
私は「えーっ?私 ベスパが良いなぁ」(当時流行ってた)と、親心を知らないワガママを言ってしまいました。
結局、私は VanVanに乗る事なく、家の小屋に大切にしまわれていました。
その後、弟がバイクの免許を取り、札幌で乗り続けてました。
私は車もバイクも、好きでした。運転の仕方、技術、配線、専門用語…自然と父の話しに付き合えるのは、家族で私だけになりました。
私が結婚し、旦那も車好きと聞いた時は嬉しかったと思います。
ところが、性格が余りに似すぎていたせいか、父と旦那は『ウチの氷河期』と呼ばれる程 全く顔も合わす事が無くなってしまいました。
お互い 頑固で、一度『こうなんだ!』と言ったら曲げない。どっちも譲れない性格。
そんな父と旦那の距離が近づいたのは、父がもうがん治療を始めて二年位の時。
私は、父の通院の為にかかるお金を必死で稼いでいました。早朝から14時までバイトをし、そのまま父を病院まで載せていく日が続きました。バイト代では賄えなくなって、旦那の職場にお願いして、男だらけの肉体労働もしました。(160cm・45kgの女ですが💧)
そんな私を、見かねた旦那が 父の通院を手伝ってくれる様になりました。
次第に距離が縮まり、お互い口数は少ないけど話す事も。話題は「バイク」でした。
それから間もなく、父は言葉も上手く出なくなり 少なかった口数もより一層減りました。
最後の一週間。私は母と病室に泊まり込んで、夜中に目が覚めて喋り出す父の相手をしていました。
私は、楽しかったです。父は 天井を指差して屋根の作り方を私に説明してくれたり。テレビに挿してたイヤホンをメジャーと思ってる父が、私に「何か」の測り方を教えてくれたり。一緒にバイクを直してるのか、「お前、ちゃんとビス持ってれって!!なんで落とすのよ!!」と叱られたり(笑)
こういう話、私しか分からないもんね…。そう思うと、嬉しくて楽しくて。
そして。
父が亡くなった後です。
旦那が、おもむろに実家のバイク小屋に通い出しました。何故かは分かりませんが、突然、VanVanをいじり始めました。
旦那は、バイクの「ど素人」。どれがなんの部品かすら知らない。
毎日、仕事から真っ直ぐ実家のバイク小屋へ。
しかし 簡単に直せるワケもなく。
あれはお盆が近づいた 暑い日でした。
私が家で掃除をしてると…聞き覚えのあるエンジン音が近づいて来ました。すぐに「VanVanだ!!」と 家を飛び出して、この目で動くVanVanを確認しました。
「ありがとうー!!」旦那に飛び付いて心からお礼を言いました。
「違うよ。あんね、あのバイク小屋にさ、親父 少ーしづつヒント置いてってくれてたの。すっげー分かりずらくて苦労したけどね(笑)それをスマホで全部調べて、やっと動いた!」
ヒント?? 一緒にバイク小屋に戻り、よーく目を凝らすと部品の名前、同じ部分に使うもの、困った時の父の対処法…確かに分かりずらく、でも確かなヒントがあちこちに。
「俺さ、VanVan直したいんだよねーって前に親父に言ったの。したら、『お前にはムリだ』って笑われたんだわ。でも、ちゃんとヒント置いてってくれたんだな。」
全くバイクに無知な旦那が、父が最後に手掛けてたバイクを 乗れるまでに直した。
私にはVanVanの『軌跡』と『奇跡』だ、と思えて仕方ありません。